作者自身も述べているとおり、山本常朝の『葉隠』は作者の文学の母胎であり、作者の生き方に影響を与え、活力の源である。したがって、作者の作品論、作家論を考えるにあたり、本書を避けて通ることはできない。
<br />数多く著されている作者の小説の中で、一貫して提示されているテーマの一つが「死」である。「死」を一つの終局と捉えることにより、今ある「生」が瑞々しく感じられるのだが、同時に「生」は儚い夢であるというニヒリズムも横たわってしまう。本書で述べられているそれが、「死」をテーマとする作者の小説に暗示されていると思われる。
<br />完全な「死」の選択や「死」の強制を否定する作者は、むしろその両者の関係の中で追い詰められたときに直面する緊張状態と行動に価値を見出す。つまり、そこには「正しい死」や「犬死」というような価値判断はなく、「死の尊厳」があるのみである。そして、作者の生き方、書、とりわけ自殺について考えるとき、それらのエッセンスがこの「死の尊厳」に帰着すると思われるのである。
<br />『葉隠』は「死」を見つめることで得られる生きた哲学を説いているが、行動哲学や恋愛哲学も説いている。身嗜みや心構えなどの処世術、プラトニックな恋の極致観はそれ自体興味深いが、本書はそれについて考えた作者の解説によってさらに深い味わいを与える。
<br />「生」と「死」、そこから生ずる人間哲学について本書は示しているが、それは時代や空間を超えて語り継がれるべきものと思われる。
できれば「武士道」と比べるべし。2冊の比較で学ぶのも良し。おすすめ度
★★★★☆
「武士道」といれば、どうしても新渡戸稲造を連想するが、
「葉隠」は実践的な武士の精神を説いている。
新渡戸の武士道はあくまでも、日本人の精神論を欧米に説明するために
かかれたいわば「日本人論」であって真の武士道ではない。
葉隠は、武士の「覚悟」を説いたものであり、実践を主としたものである。
この2冊とも、いまだ精神論ではよく読まれているので、
自己の座右の書とする人が多い。
事実、いろいろな自己研鑽書は星の数程あるがどれもほぼこの2冊から
書かれたものが多い。
下手な精神論書を読むよりはこの2冊で十分。
概要
『葉隠』は、佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が、武士道における覚悟を説いた修養の書である。太平洋戦争時に戦意高揚のために利用され、それゆえ戦後は危険思想とみなされることもあったが、その世間知あふれる処世訓は、すぐれた人生論として時代を越えて読み継がれている。 本書は、『葉隠』を座右の書とする三島が、抜粋した名句からエッセンスを抜き出し、中核をなす「死の哲学」に解釈を加えたもので、『葉隠』の魅力と三島の思想が凝縮された1冊になっている。
武士といえども藩の組織人であり、彼らに説かれた処世訓は今の企業人にそのままあてはまるものが多い。トップの決断の仕方、上司や部下をうまく操る方法、立身出世の条件、リストラの仕方、仕事の優先順位の決め方などは大いに参考になるはずだ。また三島による「準備と決断」や「精神集中」などのエッセンスは、このノウハウが小手先から出たものではなく、並々ならぬ覚悟から生まれていることを教えてくれる。ほかに恋愛論や子どもの教育論などもあり、生活全般におけるユニークな視点を見つけることができる。
三島は『葉隠』を、死を覚悟することで生の力が得られる逆説的な哲学としてとらえている。「死という劇薬」が生に自由や情熱、行動をもたらすとし、それらが失われている現代の生に疑問を投げかけている。本書が書かれたのは三島が自決する3年前の昭和42(1967)年。三島を「行動」に駆り立てた思想の一端に触れることができるだろう。(棚上 勉)